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2008/05/04 意味 について
朝は7時に起き、ゆっくりとアボリジニの本を読む。今、2年の英語でアボリジニの章を教えているからだ。 知れば知るほど、アボリジニ、そしてネイティブアメリカンの生き方に、共感。 あなたに起
2008/01/25 応援団
こんにちわ。最近はマーヒー生活を満喫しているヤス@ダメ教師です。今日職員室でやったことと言えば、お茶を飲んだこととコーヒーを飲んだことくらいです。てへ。 さて、明治大学の応援団が、下級生への暴行
2008/01/11 空間と時間の認識に関する連結性
こんばんわ。明後日が大学の試験だというのに、なかなかモチベーションが上がらない、ミスター・シーズンオフ・ヤスです。ども。 3学期は3年生の授業が無いのでなんだか張り合いが無いなぁ…

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意味 について

朝は7時に起き、ゆっくりとアボリジニの本を読む。今、2年の英語でアボリジニの章を教えているからだ。

知れば知るほど、アボリジニ、そしてネイティブアメリカンの生き方に、共感。

あなたに起こるものごとは、すべてあなたが幸せになるために起こる

意味 に関しては、僕は今年のテーマと位置づけている。


「すべての出来事には、意味がある。その意味を探すことで、すべてのつながりが見えてくる。」

という考え。原住民に見られる。日本人の一部にも見られる。
そうやってすごすことで、なんというか、ゆったりとした気持ち、すべてを受け入れられる素地ができてくる、と思う。


しかしこれほど情報多寡な現代、全ての物事に意識を向けると、早晩無理が生じる。受験勉強にあけくれる高校生にはややもすると受け入れがたい、受け入れる素地ができていない場合が多い。

そこで僕は、

「意味なんて考えなくてもいいんだ。毎日が楽しく、笑って過ごせれば、それでいいじゃないか」

とも考えているし、HRでしばしば言ったりする。



しかし、この両者の立場、まったく正反対である。

今年のテーマは、この両者を、つなげることだ。なんとかして、突破口を見つけ、ふたつをつなげ、正当性を導き出してみたい、と思っている。




そんなこんなでアボリジニを読んだ後、サッカー部の試合を見に行った。
泥だらけの試合。惨敗。
しかし、部員たちは、俺が来ているとわかると、笑顔で迎えてくれた。
もう顧問じゃない。しかし、うれしかった。

行って良かった。夏は、がんばってほしい。


その後本屋でクラスのために日本史の教材を探し購入し、アウトレットに行ったり所沢のHUBで浦和レッズの試合を見たりしていた。


初日、まずまずの立ち上がり。


明日はSWY仲間と会い、5日は朝からチャリで荒川沿いに千葉まで行く。海を、見に。
そして海の見える宿に一泊し、帰るのだ。GW、充実です。
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応援団

こんにちわ。最近はマーヒー生活を満喫しているヤス@ダメ教師です。今日職員室でやったことと言えば、お茶を飲んだこととコーヒーを飲んだことくらいです。てへ。

さて、明治大学の応援団が、下級生への暴行で解散になりました。

このニュースを受けて、応援団=暴力 みたいなイメージがある意味ではついてしまったと思います。もっとも、応援団なんて言うとそれだけで暴力的なイメージは昔からあったのかもしれませんが。

応援団って、なんでしょう?

僕は、埼玉県立熊谷高校で、応援団員、3年次には第54代の応援団長として、3年間を送りました。
今の僕があるのは、応援団があったからであると、確信をもって言えます。

応援団て、部活を応援するのが仕事じゃないんですよ。知ってますか?

応援団の仕事って、ひとつだけなんです。

それは、学校をひとつにまとめること、です。それだけだと僕は思っています。

オレは、熊谷高校を何よりも愛している。だから、野球部をはじめとするいろんな部活でがんばってる熊高生を、力の限り応援する。できるだけ勝ち進んで欲しい。その力になりたい。それだけの理由で。

そして、応援するには、「応援する資格」がなきゃならない。

毎日を適当に過ごしているやつらに「がんばれ」なんていわれたって、何にもうれしくないでしょ。

だから、応援団は、熊高のだれより、どの部活よりも、厳しく練習しなきゃいけない。それが、応援する資格というものなんです。

また、応援団の一挙手一投足は、常に均整を保ち、それだけで見るものを勇気付けるものでなければならない。
したがって、応援中の個人の自由は100%束縛される。
団員が疲れた顔をしたり、適当な立ち居振る舞いをしていたら、それこそ応援する資格なんてないし、選手はもとより、応援に来てくれる熊高生を盛上げられない。

だから、日ごろから練習中には団員には一歩だけうごくとか、汗をぬぐうとか、顔を掻くといった動作すべてが禁止される。100%、束縛されるのだ。先輩が何も言わなければ1時間でも2時間でも決められた姿勢を保持しなくてはならない(そしてまたこの「決められた姿勢」というのが、辛いものだ)

練習でやることは、長い間脈々と継がれてきた応援歌の振りの反復練習。これを「拍手」「突き」などにわけ、声を出して1000回も2000回も繰り返す。

練習場所は、校舎の屋上だ。声を出せばほとんどすべての部活に聞こえる。だから、練習だって、応援になる。

練習は、辛い。倒れるものもいる。救急車だって見た。3年次まで残れるものは入部した部員の半分にもならない。


母校を愛し、母校でがんばる生徒を愛し、母校の勝利を100%信じて、力の限り応援する。
だから、応援団は全校生徒が憧れ、彼らの声に耳を傾けるのだろう。

僕が引退するステージ、それは文化祭での演技発表会だが、自分たちの店や活動がある中、何百名もの生徒が、校歌を歌うためにステージ下に集まってくれた。

熊高がひとつになるとき、そこにはかならず応援団がいる。



権力は初めからあるのではない。それは、努力して、汗をかいて、涙を流して、耐えて耐えて、そして受け継がれるものだ。


明治大学の応援団はもはや応援団ではない。あのニュースを見て応援団そのものへの疑問が大きくなることを悲しく感じる。

いまでもオレは熊谷高校が大好きなのだ。

熊谷高校應援團公式サイト
http://kumakou.nobody.jp


空間と時間の認識に関する連結性

こんばんわ。明後日が大学の試験だというのに、なかなかモチベーションが上がらない、ミスター・シーズンオフ・ヤスです。ども。

3学期は3年生の授業が無いのでなんだか張り合いが無いなぁ…と微妙に感じています。
やっぱり、緊張感のあるところに常に身をおくこと、大事ですよね。

4月から、新たに、愛知産業大学の短期大学部の通信教育をはじめます。
日本語教育学を学びます。

やっぱり、世界を舞台に僕みたいな哲学人間が勝負するには、日本語教えるしかねーかな、と思いまして。
ま、数学は厳しいな、と自分の限界を悟ったのもあるんですがw

さてさて、最近、1年生のグラマーでは、仮定法を教えています。

If I were a bird, I could fly the blue sky.
もし鳥だったら、青い空を飛べるのになぁ…

「ありえない」願望を表す、仮定法。この特徴は、「現在」のことなのに、「過去形」が使われていることです。

なんででしょうか?

答は、簡単。時間が「過去~遠い~」のではなく、概念、空間的に「~遠い~」からなんですよね。

過去形って、昔、というか、時間的に遠い出来事を指すときに使います。それが、空間にも応用されているわけですね。

こういう、時間と空間、どちらも表せる表現て、わりとあります。

たとえば

「近い」将来

*近い…場所が近いのではなく、時間が近い、というふうに意味が変わっています。

「このあたり」で、話を終わりにしましょう

*このあたり…本来、場所を表すのに、時間がこのあたり、というふうになっています。


ね。言葉って、おもしろいでしょ。
人間の感覚、経験が言葉の意味を拡げます。

近い将来、この「意味論」という分野で大学院に行きます。40歳までには行こう。
海外の大学院ね。できれば、カリフォルニア大学バークレー校に行きたい。

はー、そゆわけで、明日は模試の監督。100分間ボーっとします。なかなか苦痛…